ユーザーから信頼されるエクセレントパートナーを目指して。

IR 投資家情報 IR 投資家情報

IR

投資家情報

日本電計の歴史

日本電計の歴史

日本電計の歴史日本電計の歴史

日本電計の歴史

1950年から半世紀、当社の歴史をご紹介いたします。

本文中における法人名は敬称を省略させていただきます。

1950年

1950年
昭和25年創業

創業者 高田啓伸が資本金30万円で設立

昭和25年と言えば朝鮮戦争勃発の年であり、それを契機として特需の発生と輸出の急増により好景気が訪れた「金偏景気」の年でもある。第二次世界大戦の終焉から5年の歳月が過ぎ去っていたものの、世の中にはまだ落ち着きをみせてはいなかった。こうした社会状況の中で、昭和25年9月4日、東京都千代田区神田須田町1-28に日本電計株式会社は産声を上げた。場所は、神田須田町の交差点の角、銀座の方から来る都電の停留所のちょうど前にあった。

はじまりは中古品の販売

神田須田町の営業所は1階が店舗で2階は机を1つ置いただけの事務所、3階は物置として使用した。1階の店舗部分には、道路に面した入り口にガラスのショーケースを置き、店舗の奥の壁面には商品を陳列するための棚を作った。会社を設立したものの都会はまだ焼け野原で新しい製品などを作れるような状況ではなかった。そこで、空襲を免れた地方に残っている中古の品物を買いあさり、都会へ持ち帰っては修理をし売り物にする、つまり中古販売である。当時、秋葉原は電気街として整いはじめた頃であり、大八車を使った露天商も多く雑然とした町並みで、電気関係の会社から部品や製品を買い付けにくるお客様で日々賑わっており、正月も2日からオープンし、土・日も店を開けていた。物不足の社会状況と金偏景気も手伝い、作れば売れる時代であった。昭和25年の神田には計測器やジャンク品を販売していた企業は、当社を含めて4社ぐらいしかなく、当時、東京大学、中央大学、日本大学、東京電機大学などの先生方が、現金を持って計測器を買いにきてくれた。

神田須田町の店舗に立つ創業者 高田啓伸

1955年

配達サービスの開始

昭和に29年頃になると各大学が購入する数多くの製品のうち重たい物は届けるようになった。また、東京通信工業(現・ソニー株式会社)への配達も増え、本格的な配達サービスが始まったが、当時の配達は縄で縛った重量のある製品を両手に持ち、電車で近くの駅まで行き後は歩いて運ぶスタイルで、手がちぎれるほど痛くなると足を止め、地面に荷物を下ろしては休むの繰り返しで配達する時代であった。社員が免許を取得して車で配達するようになったのは、昭和30年の8月になってからの事で、通称「タク上がり」と言って、タクシーの古くなった車を整備し、塗り替えて日本電計の車として使用した。

「タク上がり」の後に購入したプリンス自動車工業のスカイウェイ

10%商社

販売会社というものは、品物の仕入れ価格と販売価格の差益で商いをしている。したがってその差が大きいほど会社は潤う。計測器の販売は10%前後の利益しかでず、ほかの商社と比べて割の合わないことから「10%商社」と揶揄された。ただ、創業者の高田啓伸は一攫千金を求めなかった。猪突猛進型のタイプとは違い、石橋を叩いて渡る慎重さを兼ね備えた努力家と言えた。

販売代理店を目指す日々

創業当初の5、6年は、東京大学をはじめとする各大学の工学部などの学校関係が売上のほとんどを占めていたが、営業マンが育つにしたがって学校以外のお客様との取引も増え、計測器に関しては何でも任せられると信頼され商社としての業務も軌道に乗り、取扱う製品や顧客数も増加した。当時、当社が販売していた主要な製品としては株式会社松永製作所の「スライダック」山菱電機株式会社の「電源機器」松下電器産業株式会社、菊水電子工業株式会社、岩崎通信機株式会社の「オシロスコープ」がある。当社のように販売業を営む企業にとって目指すところは、メーカーからその製品を販売することを正式に認められた代理店となる事で、ジャンク屋から始まった日本電計を電子計測器の専門商社として業界No1の地位へ導いていったのである。

左:岩崎通信機 SS-1251A シンクロスコープ
右:菊水電子工業 539F オシロスコープ

1960年

一粒一粒に愛を込め、種を蒔く

日本経済は第一次高度成長時代に入り昭和35年には、政府による所得倍増計画が発表され、民間の設備投資も大幅に増加し世の中のあらゆる企業が上昇気流に乗り飛躍を遂げようとしていた。当社もこうした時代の追い風を受け発展の波に乗り、取り扱い製品の中でもとくにシンクロスコープは面白いようにその売上を伸ばしていた。創業から10年、当社にとっても大きく飛躍するチャンスを迎え、昭和35年5月に岩崎通信機株式会社との共同出資により、岩崎シンクロスコープ販売株式会社を設立した。この頃になると仕入先メーカの取扱い製品の数も急増するとともに、またユーザーも東京だけではなく関東一円に拡大していった。

岩崎シンクロスコープ販売の社員たち

1961年

地域密着の拠点展開

販売業は、サービスのよさが命である。ユーザー数の増大に伴い当社に対する期待度も高まり、さらに迅速なる対応を求められるなかで、当社の今の姿である地域密着型の営業所開設が始まった。

1964年

業界初のキャラバン

キャラバン車がまだ存在すらしていなかった頃、営業マンは注文を取るために各メーカーのカタログをユーザーに配っていた。取扱いメーカーや製品が増えるにしたがい、カタログの種類も多くなる。そこで当社はカタログを配ると同時にキャラバン車という営業車に製品を搭載してユーザーを回るようにしたのである。キャラバン車の使用は当社が業界初で、使用した車は関東車体で日産エコーのマイクロバスを改造したものだった。営業マンはそのバスに乗り茨城や栃木のユーザーを一泊二日、二泊三日で旅館を転々としながら回った。

商品を搭載した業界初のキャラバン車

工業高校や私大への納品ラッシュ

戦後、ベビーブームとして生まれた数多くの子供たちが高校へ上がる時期を迎え、工業教育を目的として昭和26年に文部省により公布された「産業教育振興法」とともに各県で工業高校の新設がピークとなり、各メーカは「産業教育振興法」に基づいた実験用の測定器作りに追われ、当社もメーカーの代行として納品する日々が続いた。

1969年

本社移転

最初に借りた神田須田町交差点の角にある本社ビルはもともと1.5坪のスペースしかなく、6、7人で事務所がいっぱいになってしまうほどであった。
昭和44年5月、本社を東京都台東区上野に移転した。

1970年

部品専門の販売 (株)デンケイ設立

昭和45年頃になると大型景気が過ぎ去り、世の中に重苦しい空気が立ちこめ始めているなか当社は、それを払拭するかのように販売業の拡大への第一歩となる希望を見出していた。それは子会社の設立の話である。当社にとっては新たな可能性への挑戦でもあり、昭和45年4月に全額出資で第一電波工業株式会社のコネクターをはじめとるする機構部品の代理店として株式会社デンケイを開始した。

1973年

石油危機の年、東西へ拠点拡大

昭和40年代後半から50年代初頭は、日本経済の急激な転換期であったと言える。まず昭和48年10月、第四次中東戦争に端を発した石油危機は、あっという間に全世界へと波及した。第一次オイルショックの年である。この後、日本経済は円高、低成長期時代を迎え、各企業の経営環境は次第に厳しさを増していくのである。

多摩営業所は、この第一次オイルショックが発生する直前の昭和48年4月に設立された。4年前に上野に移転した本社だが、この頃には社員数も増え、すでに手狭になりはじめていた。また、東京圏の拡大するユーザーへのフォローも、本社だけで充分に対応できるとは言えない状況になってきた。そこで、業務拡張の期待も含めて多摩に営業所を出すこととなった。

多摩営業所開設に引き続いて、昭和49年3月、茨城営業所が水戸市に開設された。東京ナショナル電子計測株式会社の跡地に設立。ユーザーは、茨城の工業高等学校、茨城大学の工学部、国立の茨城工業高等専門学校(元・勝田工専)、古い歴史のある水戸工業高等学校などである。このほか土浦、日立、高萩、玉造などの工業高校に電気科が新設されると、そこが新たな顧客となった。ほとんどのユーザーは茨城営業所が開設される以前から取り引きがあったところであるが、地元に営業所ができてからはより密着した顧客サービスができる態勢になった。翌50年11月、水戸にあった当営業所は土浦へ移ることになる。大規模な需要が期待される研究学園都市への移転が予定より2年ほど早く実施されることになったからである。土浦の営業所は駅前の専売公社のちょうど前に位置していた。土浦へ移ってからも、水戸にある各ユーザーの所へは高速道路を使い1時間ほどかけて通った。

1976年

中京経済の中心地へ

昭和48年から始まったオイルショックは、諸物価の高騰、人件費のアップをもたらした。翌年は電力事情の悪化から、テレビも深夜放送が中止になり、昭和50年には石油価格が再び高騰し、オイルショック前の4倍になったのである。昭和48年度(28期)の当社の売り上げを見てみると、御多分にもれず26億円にとどまった。翌49年度(29期)は33億円余であった。当時、中部地区の拠点として昭和44年に設立された浜松営業所があった。そこは地元だけでなく、名古屋にも多くのユーザーを抱えていた。離れていれば、なおさら業務で電話を使う機会は増える。だが、このオイルショックを契機に、当社と取り引きのあったユーザー各社がたとえ業務上の連絡であっても県外への電話を禁止されたのである。注文をとる際も、往復ハガキを利用した。これは、当社の客先に限ったことではなく、世の中全般にみられた石油危機への防御策であった。いまでは考えられないことであるが、それほどオイルショックが日本に与えた経済的ダメージは大きかったと言える。しかし、いくら社会状況がそうだからといって、それに甘んじてばかりはいられない。相手は大切なお客様である。このままではお客様であるユーザーに満足のいくサービスを提供できない。こうして名古屋営業所は誕生した。

パソコン関連の本格的取り組み

昭和51年10月、時代の要請を受けてパソコン及び周辺機器の取り扱いを本格的に開始。アナコンやリレー式計算機、ミニコンは研究機関に計測データの解析用として販売をしていたが、米国のタンディ社製のPCが日本で発売されたのを機会に、将来、電子計測分野においての解析・記録ツールとして必要不可欠な商品となることを確信し、またFA分野における制御装置としての可能性も計り知れないものであることが理解できた。当社は、周辺機器の取り扱いも充実させる政策を展開し、いまも継続している。

タンディ社のパソコンを使用したシステム

1980年

神奈川の第二拠点、厚木営業所開設

昭和48年(1973)に突如発生したオイルショックの爪痕がまだ生々しく残っている昭和55年、日本は再び第二次オイルショックに見舞われた。政府は予想されるインフレの防止対策として、金利を過去最高の水準まで引き上げた。その結果、景気は停滞の様相を呈しはじめた。物価の安定と円高傾向の定着を見計らって、政府は需要喚起の対策を講じるが、なかなか景気の回復にはつながらなかった。

一方、エレクトロニクス産業界は、このような経済環境でありながら、終始、活況がみられた。また、家電においては、家庭用ビデオの需要が急速に拡大していた時期でもある。当時、本社営業部でソニーを担当していたが、そこがにわかに忙しくなってきたのである。神奈川にはすでに横浜営業所が設立されていたが、ソニー厚木工場への密着サービスと厚木地区の業務拡大を狙いとして、昭和55年9月、厚木営業所が開設された。

営業所は本厚木駅からソニーの工場へ行くまでの途中にあった。仕事はどんなことでも気持ちよく引き受けた。オイルショックのときでも頼まれれば秋葉原までとんでいき、物不足のなかいろいろと買い求めたものである。

宇都宮へ新たな拠点づくり

この頃、栃木にある工業高校からの需要は下火になっていたが、その一方で日本信号株式会社の宇都宮工場、宇都宮大学、ソニーなどの民間企業や大学からの受注が次第に活性化しはじめていた。関東地区のユーザーを担当する営業拠点としてそれまでに埼玉と茨城に営業所が開設されてはいたが、それだけでは地元および栃木県ユーザーへの行き届いたサービスができにくい状況になっていた。
そこで昭和56年10月、宇都宮に営業所が設立される運びとなった。

千葉のユーザーに密着

当時、千葉にはソニー東金株式会社やソニー木更津株式会社の工場があり、千葉工業大学、千葉大学、日本大学、放射線医学総合研究所などの学校官庁の顧客も数多くあった。最初はどこもそうであるが地元に営業所ができるまでは、本社にいる営業マンが東京だけでなくほかの地域にいるユーザーの所まで出向いてゆくことになる。むろん千葉も同様であった。しかし仕事が増えるにしたがって、東京から何度も通っているより現地に営業所を出した方が、顧客はもとより社員においても好都合ということになる。
こうして当社の基本方針である地元密着を主眼に、昭和58年2月に千葉営業所が開設された。

昭和59年7月(1984年)
水戸営業所 開設

1985年

東京南営業所の誕生

東京営業所はもともと23区を南北に分けて対応していたが、城南の方が京浜工業地帯を担当していて仕事量も多かった。顧客密着型のサービス事業拡大のためにも、さらに城南地区に営業所を新設する必要性が生じてきた。そこでユーザーが集中していた大田区、目黒区、品川区とソニー関連を担当する拠点として昭和60年3月に東京南営業所を設立した。

厚木事業所の建設とテクニカルセンター

昭和60年4月、神奈川県厚木市にテクニカルセンター、研修センターの開設とともに厚木事業所を設立。厚木駅の近くに4階建ての社屋を建て、1階には厚木営業所が移転して2階にテクニカルセンター、3階は研修センター、4階には宿泊施設とした。

その頃から、既製品では間に合わない特注品を作る仕事が増えていた。当社としては特注品などのエンジニアリング部門を強化し、テクニカルセンターを開設し、設計・製作をする体制を整えた。各メーカの測定器を組み合わせてひとつの測定架として納める仕事も多かった。

左:厚木事業所/右:当社製作の測定器

昭和60年4月(1985年)
テクニカルセンター(研修センター開設)

西日本地区への第一歩、京都へ

名古屋営業所の開設から9年が経過し、当社としてもなんとかして西日本地区への進出を図りたかった。そんななか、あるユーザーから工場進出に伴い、当社に対して近隣への拠点開設の要望があり、昭和60年7月、西日本地区の第一拠点として京都営業所を開設した。

甲信越地区の進出を図る

多摩営業所が開設されてから12年が経過していた。当然、社員数も増えより広いスペースを求めて営業所も何度か移転を繰り返してきたが、物理的に営業所を広くするのは簡単だがそうはしなかった。より戦略的な手段として、山梨への進出である。山梨を拠点にして西へ西と広げていくのが狙いで、昭和60年11月に甲府駅から中央道へ車で10分ほど走った所に山梨営業所を開設した。

1988年

商品センター開設と横浜営業所移転

日本電計初の販売拠点である横浜営業所は開設からずっと借家で手狭になっていた。鶴見に200坪ほどの土地を購入し昭和63年10月、横浜営業所の移転とともに商品センターを建設した。物流拠点としての鶴見の商品センターは大規模なものとなり、ユーザーからより一層の物流の迅速化が求められるなか、即納体制を整えるとともに、物流の効率化を図る目的として商品センターを当地に開設した。

昭和63年10月(1988年)
横浜商品センター 開設

1990年

初の海外支店、シンガポール

世界のマーケットで世界の企業を相手に勝ち抜いていくには、生産方式や材料費が変わらないとなると人件費を安くする以外に方法はない。当時、日本はもちろん世界の多くの企業が人件費の安い東南アジアに生産をシフトし、生産コストの軽減に全力を投入していた。こうした状況を背景として、東南アジア全域の顧客への営業活動の拠点とするために、平成2年9月、当社もシンガポールに支店を開設した。同支店は、日本国内では行わないメンテナンス(修理と校正)もやるのが特色である。本社から技術者など3人を派遣し、現地の6人と併せて9人の体制でスタートした。

海外進出の最初の拠点をシンガポールとした理由は、国内で取り引きしている某主要ユーザーの数多くがシンガポールヘ進出し、それらの日系企業からぜひ出てくるように要請されたからである。メンテナンスをしてほしいというのが最大の理由であった。また、かなり前から日系企業に海外進出を求められて いたが、当社が取り扱っている電子計測器の約90%はココム規制の対象となっていたのが、そのココム規制が少しずつ緩和されはじめたことも、シンガポール進出に踏み切った要因のひとつである。当社は、これを契機としてマレーシア、タイなどへも進出していくことになる。

1990年

株式店頭公開

当社が株式店頭公開の準備を開始した頃は、バブル崩壊の直前で、その兆候が随所に表れはじめていたときである。したがって、店頭公開を見送る会社も少なくはなかった。今日では現時点での業績が振るわなくても将来性があれば 公開できる時代であるが、当時は業績が上り調子でない企業は公開できないという基準のようなものがあった。つまり、店頭公開会社は「上場企業の予備軍」であるという認識があり、将来、上場できる可能性がないと店頭公開できないといった厳しさ、難しさがあったのである。

店頭公開においてもっとも苦労したことといえば、証券会社や大蔵省の財務局に堤出する書類を準備することであった。用語や堤出書類のフォーマットがすべて決まっており、日常の業務のそれとはまったく趣を異にしていたからである。こうして準備開始から3年、公開時の値付きの問題など不安と期待を抱えながら、平成3年10月8日、株式店頭公開を果たしたのである。

店頭公開翌日、初値を報じる(株式市場新聞 平成3年10月9日)

店頭売買銘柄新規登録証の授与式

長野・松本営業所開設

以前、当社に勤めていた社員が独立して、長野県で計測器の販売会社を作り経営していたが、平成3年半ば、従業員も含めて会社ごと買い取ってほしいという要望が当社に寄せられた。当時、当社としては長野県への進出を模索していた時期でもあり、この話を受け人れ、平成4年7月、長野営業所および松本営業所を同時開設することとなった。

1996年

マレーシア、タイに現地法人

マレーシアにも日系企業の数多くが進出し、当時はシンガポール支店がこれらユーザーを担当し、出張によるサービスを行っていた。しかし出張という形だと、どうしてもポイントごとのサポートにしかならず、定常的なサポートができない。顧客は困ったときにいつもサポートしてもらえるように、そばにいることを求めた。そこで平成8年7月、顧客のニーズに応えるためにマレーシアのクアラルンプールに現地法人を設立した。

タイも日本企業の工場が多くあり、出張ベースでは以前からよく行っていた。ソニーがタイでカーオーディオの大きな工場を作ったとき、日本で大きな受注をいただいた。その頃からタイへ出てくるように要請されていたので、平成9年5月、バンコクに現地法人を設立した。

中国市場に向けて

東南アジアと同様に、生産コストの安さと、その地域で販売するにはその士地で生産するのがいいということもあって、各日系企業は中国へも進出していった。当社が中国へ出たのは、国内で取り引きのあった顧客の多くが中国に進出したというのが第一の理由である。中国は、仕事としてはマレーシアやタイよりも早くからあったが、オープンにされていない部分が多いので、出るのになかなか踏み切れないでいた。

また中国では、商社という業態では認可がなかなかおりない。製造会社のように工場建設や技術移転なら、雇用促進にもなり現地の技術者のレベルも上がるので歓迎されるが、商社は技術移転という形での捉え方をされなかったのである。したがって駐在所としては出られるが、営業活動はできない。情報の発信・収集のみの業務となる。こうした中国の事情により、現地にいる顧客との接点を身近に持たせる意味で駐在所を設けて、営業活動は日本で行うことになった。そして平成8年7月、中国で最初の駐在所を天津に設立し、その後、上海、大連、深訓へと展開した。

左:開設時の天津駐在事務所/右:開設時の上海駐在事務所

1999年

そして次の半世紀へ

昭和25年、神田須田町の1.5坪の店舗から船出して、およそ半世紀。日本電計を先導してきた高田は、新たな時代の到来とともに次世代の者にバトンを渡すことを決意する。

平成11年4月、初代社長高田啓伸が代表取締役会長に、副社長の河野道明が第2代目代表取締役社長に就任した。
高田啓伸の社長在任期間は48年7カ月に及んだ。

電子計測器を専門的に扱う商社として発展してきた当社は、いまや業界シェアのトップを誇るリーディングカンパニーとなるまでに至った。顧客数、仕人れ先数、取扱品目、資本金、社員数など企業規模としての数字は大きな変化を遂げたが、創業以来、何ひとつ変わらないものがある。それは、経営理念である。「顧客・メーカー双方の『テクニカルパートナー』を行動の主柱とし、つねに節約を旨とし、社員教育に重点を置き、積極的に企業体質の強化を図り、顧客ニーズに対応できる体制を整え、それにより社の繁栄を期し、顧客企業およびメーカーの最先端技術の発展に協力・寄与すること」。日本電計を設立して以来、起業家としての高田啓伸が貰き通してきた精神でもある。

創立50周年をむかえる

半世紀 計測器とともに

2020年9月

創立70周年をむかえる

2020年6月、日本電計グループでは、10年後の2030年を見据えた成長戦略を策定いたしました。